名誉毀損は、特定の人物に対して、事実摘示をもってする誹謗中傷と、簡単に定義できます。
事実摘示の違いが、単なる誹謗中傷である「侮辱」とは異なるといえます(通説・判例)。
侮辱の場合は、民事的にも損害賠償が認められるのはかなり例外的なものとなります(ほとんど認められない)。これは、侮辱が基本的には意見となることからくるものです。
意見は述べることは基本的には自由
しかし、事実と異なることを述べて誹謗中傷することは許されないという価値観が根底にあるものです。
そこで、極めて卑怯な言い方として「関与」論を取り上げます。
関与論には、実は、2つの使われ方があります。
1 文章などに既に「関与」を使っている場合
たとえば、
「○○という◯◯をして、誰々は、殺人に『関与』した」という文章を書いた場合、審理の対象となるのは、「○○という○○」をしたか否かという事実の有無の審理、事実摘示の有無の審理となります。この例は、現実的にはあまりないとはいえますが、「○○という○○」がかなり現実とは離れた事実でもよいといえます。そのため、この例は名誉毀損からは逃げやすくなるといえます。
例をいうとわかりやすいです。
誰々は、犯行現場の起こった家の家主である、だから、誰々は、この殺人に「関与」したといえる。ならどうでしょうか。ものすごく誰々を侮辱する文章であることは間違いはないのですが、「関与」という文言の多義性ゆえに、事実と反した評価とはいえないといえます。ただ、なにの事実を基に、誰々を誹謗中傷しているかが明確になっていますので、この文章に接した人は、何言ってるの?この人?っていう感想にもなります。それゆえに、誹謗中傷で人を貶めようとおもっている人にとっては、あまり望まれない書き方とはいえましょうか。
文章家として極めて卑怯な書き方とは私はおもいますが、たとえば、
「誰々は、殺人に『関与』した」とだけ書くのであれば、基本的には事実摘示にはならないといえます。「関与」は、かなり内容の量、善い悪いをすべて含む極めて抽象的なものだからです。
おまえは、馬鹿だ!と単にいったものと同じといえましょうか。
2 自己の主張を正当化させるための「関与」論
先ほどの後者の例は、文章家としては卑怯ですが、さらに卑怯なのが、この主張です。
基本的に、この主張が使われるのは、すでに対象となる文章等には、「関与」という言葉が使われていない場合が多いといえます。
たとえば、
「○○という◯◯をした、だから、誰々は、殺人をした」
という文章が対象となっている場合に、
「○○という○○をした」か否かという事実についての審理が問題となります。
この場合に、「関与」論を持ち出す例です。
たとえば、全く関係のない例を持ち出したり、たとえば、誰々は、別に犯罪をしていたことがある云々などの主張をいい、
「関与」していたことは間違いない。
私が書いた文章は、「関与」の趣旨である。
とするものです。
問題のすり替え論ともいい、事実摘示の対象は何であるかを、明確にみすえる必要があります。
関係のないことを言い出したら、「○○という○○をした」という事実論に一々引き戻す必要があります。
自分の書いたものを、横におく、真正面から向かい合わない極めて卑怯な主張といえます。
関与論を言い出したら、ああ、この人は、自分の書いたこと自体の正当性、事実の有りを根拠をもっていえないのだな、という気持ちが必要になります。
結論:
「関与」論を言い出す卑怯な者は徹底的に糾弾し、事実の検証を徹底的にし、もともとの事実の有無を明らかにすべし。
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